ゴッホとゴーギャン。19世紀末のパリで、それまでになかった個性的な絵を描こうと意欲を燃やした後期印象派の画家。セザンヌもスーラもロートレックも、そしてゴッホもゴーギャンも、従来のアカデミー風の絵画から逸脱する激流に身を投じた。「けれど、二人の絵は先を行き過ぎて世の中が追いつかなかった」――。ゴッホは、画商をしていた弟のテオに支えられながらも心身を病み、ピストル自殺をしてしまう。ゴーギャンは、いっときゴッホと南仏・アルルで共同制作を試みたが、意見の食い違い等から訣別し、最後は遠く離れた南洋の島・タヒチへ一人で赴き、孤独な生涯を閉じる。二人とも生前に、評価されることは全くなかった。しかも、共に生活して、訣別となった時、ゴーギャンが出ていくのを食い止めようとしたゴッホは、自分の耳を切り落とした。
「耳を切り落とすまでしたゴッホとゴーギャンの愛憎入り乱れる関係の真実は?」「ゴッホのピストル自殺――誰がどのようにしてリボルバーの引き金を引いたのか?」――。この謎を剔り出す本書の迫力は凄いものがあり、感動的だ。
パリ大学で美術史の修士号を取得し、「ゴッホとゴーギャン研究」を続ける高遠冴は、パリの小規模なオークション会社に勤めている。ある日、冴の下に古びた拳銃・錆びついたリボルバーが持ち込まれる。「あのリボルバーはフィンセント・ファン・ゴッホを撃ち抜いたものです」――ゴッホの自殺に使われたものだというのだ。会社代表のギローとフィリップの協力を得て、冴は「ゴッホの拳銃自殺」「ゴッホとゴーギャン」の真実を追い求めていく。
「共同生活を始めたのに、彼らの絵には甘ったるいコラボレーションなどは微塵もなく、互いに強烈な個性と、・・・・・・自由奔放さに溢れ、二人は絵の中で激論を交わし、しまいには取っ組み合いのけんかをしているようにサラ(拳銃を持ち込んだ画家)の目には映った」「先輩で絵も多少売れて優位に立つゴーギャンが出ていくのを止めようとして、ゴッホは自分の耳を切る行為に及んだかのような印象を受ける。しかし・・・・・・。ゴッホは磁石で、ゴーギャンは引き寄せられる砂鉄だ。強烈な磁力に自らの回路を狂わされてしまうと感じたゴーギャンは、ゴッホの影響力から遠ざからなければと、離れたのではなかろうか」「ゴーギャンはゴッホの磁力からとてつもない遠くへ、タヒチへ行こうと思い込んだのでは」・・・・・・。「ゴーギャンの独白」は強烈だ。「とてつもない"彼方"に行く。全く新しい絵の様式と表現をみつけて自分のスタイルを確立する。・・・・・・アカデミーのお偉方も印象派の面々も、誰も私に追いつくことはできない。それくらいの高みに昇り詰めるんだ」――。そして共同生活において、ゴッホを良く知る弟のテオが「兄はかっとなると何をしでかすかわからない」としてリボルバーを護身用にゴーギャンに渡したという。
狂わしいほど「新しい絵」を求めて、ぶつかり合い、傷つけ合い、のたうち回った二人。"悲劇的な結末"の二人。しかし、その激しく一筋の道を走り抜いた二人を、余すことなく描き切った傑作となっている。
幕末から明治にかけて異能ぶりを発揮した"画鬼"・河鍋暁斎を父に持った娘・暁翠(とよ)の苦難の人生。"画鬼"の軛から逃れられない絵師としての人生を描く。河鍋暁斎は、天保2年(1831年)に生まれ、明治22年(1889年)に没した。狩野派の流れを受けているが、他の流派・画法も貪欲に取り入れ、鯉などの写生だけでなく、火事でも"生首"でも徹底して写生。浮世絵をはじめ戯画や風刺画と、自由奔放、徹底して描き切るまさに"画鬼"。絵師として育てられた娘のとよ、そして腹違いの兄・周三郎(暁雲)にとっては、あまりにも巨大で奔放な"画鬼"暁斎の"狂"の影に死後も翻弄される人生を余儀なくされた。愛憎共存どころか、兄・周三郎には"憎"と"反骨"のマグマが充満し、とよに難癖をつける日々が続いた。加えて明治の後期は、日本の近代化のうねりが怒涛となって日本画壇にも押し寄せ、暁斎の画風を受け継ぐ者には厳しいものとなった。
早くして養子に出された弟の記六は頼りなく、妹のきくは病弱で、若くして死んでいく。支えてくれた真野八十吉、八十五郎の父子、鹿島清兵衛らも、激変する時代と自らの"業"に翻弄されていく。
「生前の暁斎は、世の名声には目もくれなかった。だがそれは己の絵に対する激しい自負ゆえであった。・・・・・・この世のあらゆる光景を描こうとした父は、死にゆく己すらを描いて息絶えた。周三郎は父と同じ死病に取りつかれたことを誇り、一人此岸に残るとよを嘲った。画鬼の家の住人として生き残るならば、自分よりも兄の方がふさわしかったはずだ。二人の没年に近づいてもみると、それにもかかわらず、父と兄の絵が顧みられぬこの世に、老いた自分だけ留まっている事実が、何やら申し訳なくすら感じられた」「自分は父の絵を守りたいわけではない。ただ自分と兄を画道という獄(ひとや)に投げ入れた画鬼に、愛憎乱れた矢を一矢でも報いんとしているだけだ」「自分は父と兄について話さなければならない。・・・・・・小器用、結構。猥雑戯狂、大いに結構。それこそが暁斎が描き続けた絵の真髄であり、自分と周三郎がついに届かなかった高み。そして自分たちの足元に灯り続けた、たった一穂の灯だ」・・・・・・。
家族、兄弟、そして何よりも師弟の志の絆は続く。
重要なことは、「戦略的に縮む」ということ。"漫然と"ではない。"戦略的"にということだが、今の喫緊の課題でもある。人口減少・少子高齢社会は急速度にやってきている。日本は輸出入立国ではなく、国内需要で成り立ってきたが、それが人口減少・少子高齢社会で急減する。「コロナが収束すればV字回復」などない。アフターコロナの時代はより縮小していくマーケットしかないのだ。しかも既に一人当たりGDPをはじめ、日本の低落は続いているうえに、"デジタル敗戦"が眼前にある。コロナ禍で、河合さんの話題を呼んだ「未来の年表」が前倒しになることを意識しよう。主張はきわめて明確だ。
本書は「未来の年表」の「戦略的に縮む」考え方の具体策を紹介する実践書だ。本文だけでなく巻末の諸データ「平成の30年間で日本はこう変わった」に危機感が増す。「もはや日本は先進国ではない」「出生数も婚姻数も減った」「紙おむつの生産は赤ちゃん用より大人用が伸びている」「非正規雇用という賃金の上がらない被害者」「2042年には高齢者人口が4000万人で多くは一人暮らし」「薄利多売はもうやめて、高付加価値ビジネスに転換しよう」「技術を生かして事業転換した富士フィルム、オリンパス、多機能断熱ボックスを作った大日本印刷、鯖江市の医療機器への転換、倉敷のジーンズ」「自社だけで変われないならM&Aや他社連携」「DXを正しく理解し活用しよう」「高齢者向けの新商品を開発して海外に売ろう」・・・・・・。
「大企業でも副業OKの時代、みずほの週休3日制」「コロナ禍で減った残業代は戻らない。社員の選別が激化する」「テレワークが広がり、人事評価が変わる」「24時間営業の"便利すぎる"時代はない。ロイヤルホストも戦略的に縮んだ」「老後の暮らしも戦略的に縮むように。住む街を通勤の利便性で選んではいけない」「マンション住民は"住み替え派"から"永住派"に逆転」「大規模修繕のリスクを考えよう。タワマンは超危険」「集住しないと行政サービスは成り立たない」「自分と家族の"人生の未来年表"を作ってみよう」「70歳まで収入を得られるようにしよう」「50代で自分の資産・人脈・スキルの棚卸しを」「生活スタイルの断捨離を」「最大の難関は、子育てと親の介護が重なる"ダブルケア"」・・・・・・。
副題は「縮小ニッポンで勝つための30ヵ条」だ。