宇喜多直家の嫡子・宇喜多八郎秀家。仕物(暗殺)で名をはせ謀略の限りを尽くした梟雄・直家に比べ、育ちも良いが、凡庸ではない。時は戦国、西には毛利、東には秀吉・家康等に挟まれて苦難の連続。幼くして天正9年(1581年)に父・直家が病死、翌年には本能寺の変、紀州討伐、小田原征伐、朝鮮遠征、伏見城や杭瀬川の戦い、そして関ケ原、逃亡して薩摩、50年にもわたった八丈島。秀吉から寵愛を受けるが、晩年の秀吉は常軌を逸していたし、その後の家康の知謀・圧力はすさまじい。しかも「宛行」をめぐっての家中の騒動も激しい。
「強き者、弱き者にかかわらず、健やかに過ごせる。そんな楽土をつくる。民のために干拓する」――。父・直家の心を真っすぐに受け、秀家は濁流のなか懸命に走る。家康はいう。「わしは流されただけにすぎませぬ。流れに逆らった者はことごとく滅びます」「才覚ゆえではない。流れにだれよりも従順だった」――。秀家は「私は内府殿とはちがいます。この生き方は変えられませぬ」「父の直家もまた、流れに抗いつづけた人生だったではないか。その最たるものが、この干拓地だ」「宇喜多の領国のために戦う。豊臣家や秀頼を滅ぼさんとする流れに、全力で抗う」と誓う。
激流のなかで秀家は敗北の将でもあり、時流に抗い続けた人生に見える。しかし、策に溺れず情をもつ丈夫の生き方からか、いざ逆流の極みとなった時に、必ず守る人が現われるのだ。とくに正室となった前田利家の娘・豪姫の存在はゆるぎない。心の柱だ。
日中戦争の最中の1938年。当代きっての流行探偵作家の小柳逸馬は、従軍作家として北京に派遣されていたが、検閲班長の川津中尉とともに、前線である万里の長城への移動を命ぜられる。その張飛嶺で待ち受けていたのは、第一分隊10名が全員死亡するという事件だった。
二人は、事件解明に直ちに着手し、関係者を聴聞する。「匪賊からの襲撃か」「分隊内での恨みつらみ、内輪揉めか」・・・・・・。そこには軍人のかかえる嘘と体裁、規律のゆるみ、親を殺され妻を辱められ焼き尽くされた中国人の憎悪があった。そしてたどり着いたのは「そもそもこの戦争には、大義がないのではないか」「戦いながら大義を探しているのではないか」「要するに日本は、わけのわからない、戦いの理由がわからない戦争をしている。そんな戦争の中で日本軍は軍隊としての正体をなくし、謀略がすっかり習い性になってしまった」という根源的なやり切れない闇だ。その闇と嘘の隠蔽の重ね役として、小柳は従軍作家として派遣されたことを悲しみのなかで思うのだ。感情を押し殺して・・・・・・。
子どもの脳は、生まれてからずっと成長・発達途上にあり、我々が想像している以上に柔らかく、傷つきやすい。とりわけ最も身近で安全な場所であるはずの親から「攻撃」を受けると、深いダメージを受けてしまう。マルトリートメント(不適切な養育)が、外から見える傷はなくとも子どもの脳を"物理的"に傷つけ、変形させる。言葉のDVはより脳に大きなダメージを与えるという。
友田さんは小児精神科医として、子どもの発達に関する臨床研究を続け、「日常のなかにも存在する不適切な養育」「マルトリートメントによる脳へのダメージとその影響」を示し、「子どもの脳がもつ回復力を信じ」て専門的な療法を提示する。親も子どもも専門的で粘り強い治療が大切となる。そして、「健やかな発育に必要な愛着形成」「マルトリートメントからの脱却」の新たな試みを示す。
私たちの子どもの頃は、もっとひどい体罰等が行われていたと思われるが、「愛着」という観点から見ると、今の親が孤立し、ストレスをため、子どもを追い込んでいること、また子どものレジリエンスを伸ばせないでいることも理解できる。本書での警鐘を真正面から受け止めたい。
13日、地元では「町会・自治会の運動会」「防災訓練」「バラ祭り」「縁日」など多彩な行事が行われました。
大塚駅南口広場「トランパル大塚」では、「第13回大塚バラまつり」が多くの方が集い、盛大に開催されました。
かつて都電荒川線大塚駅から向原駅までの区間ではゴミの不法投棄や違法駐輪が目立つ地域でした。そこに約30年前に植えられた約100本のバラが残っておりました。これらのバラを育てることで景観の美しいまちにしようと平成20年に南大塚都電沿線協議会を発足させ、今では約700品種のバラが毎年春と秋に見頃を迎え、訪れる人々の目を楽しませています。都電も沿線のバラも多くの観光客の人気スポットとなっており、この日も多くの人がカメラに収めていました。