生まれながら病弱な娘を救いたいと「あやしい宗教」にはまっていく両親。そのなかで疑問をもつことなく"フツー"に小、中学時代を過ごす娘・林ちひろ。姉は突然家を出て行き、周りから不審者扱いをされる家族だが、閉鎖空間のなかで家族の愛は変わらない。崩れもしない。そして外の世界といっても閉ざされた学校内にとどまる。
たんたんと過ぎ行く日常と友人関係は、人の心の中に入り込むことを避ける微温的社会によって成立しているが、はっきり決別する者が出てくる。家出した姉、変な信仰から離れよという叔父、言葉をしゃべらないフリをする落合の息子。
人が成長し、開放された複雑な社会に投げ出された時、閉ざされた親密な安定からどう離脱するのか。家庭の信仰から自らの信仰への飛躍、あるいは決別・・・・・・。その境界を"流れ星"を見る娘、見えない両親という形で描いたのだろうか。安定から変化を予感させる。余韻を残す作品。
昆虫学者・前野ウルド浩太郎さんは「バッタ博士」。「バッタに喰われにアフリカへ」が本心だというのだから凄まじい。人類を救うため、自身の夢を叶えるために単身サハラ砂漠、モーリタニアに乗り込んで、研究というより格闘する。
バッタは漢字で「飛蝗」と書き、虫の皇帝と称される。研究対象はサバクトビバッタ。アフリカの半砂漠地帯に生息し、ひとたび大発生すると、数億匹が群れ、天地を覆いつくし、農作物をはじめ緑という緑を食い尽くす。「蝗害」という。大災害を起こす天災だが、本気で大群のいる所に飛び込んでいった研究者はいなかった。
「狂ったように飛びかうバッタと、狂ったように走り回る私」「さあ、むさぼり喰うがよい」というように、データを探りまくり、「飛蝗」からアフリカを救うことに命を懸ける。「ラマダンの断食」をすると「明らかに幸せのハードルが下がり、些細なことにでも幸せを感じる体質になる」というように、猛然たるエネルギーとともに感謝の心があふれている。バッタとの死闘が"喜悦はかりなし"というのだからすごい。恐るべき体験談の書。
21日、NTT武蔵野研究開発センタで開催中の「デジタル技術が彩る未来へ NTT R&Dフォーラム2018」を視察。これには、高木陽介衆院議員(党ICT社会推進本部本部長)、輿水恵一前衆院議員(同事務局次長)らが参加しました。
このフォーラムでは、AI(人工知能)やIoTに関する技術に加え、ネットワーク、セキュリティ、メディア処理やユーザインタフェースに関する技術など最新のICT研究成果について展示が行われています。
臨場感をもって見れる3D映像音響や、立体映像技術でイベント会場等の混雑をAIによってリアルタイムで予測する「学習型誘導技術」、不正なアクセスを防ぐサイバーセキュリティ対策などを視察するとともに、研究者と意見交換をしました。セキュリティの重要性をより一層認識しました。
AI 、IoTの時代が急速度で進む時代を見据え、さらなる技術革新と、それに対応するセキュリティへの取り組みを強く推進していきます。
21日、東京墨田区の春日野部屋において、初場所で歓喜の優勝を果たした栃ノ心に対する福島県からの米「天のつぶ」1トンの贈呈式が行われました。平幕では6年ぶり、春日野部屋では46年ぶりの優勝でした。これには、大橋信夫JA福島五連会長、甚野源次郎(公明党福島県本部議長)、加藤雅之都議会議員らが出席しました。
福島県知事賞は、県とJA福島中央会が協力し、平成25年一月場所から幕内優勝力士に県産米を贈っているものです。この企画は県産農産物の「風評被害払しょく」と「安全性」を全国に訴えようと福島県議会公明党が提案したもの。大変良い企画で私も推進しました。贈呈式では、栃ノ心も次の場所への決意を語っていました。
宮沢賢治を、父・政次郎を描くことによって浮き彫りにする。「雨ニモマケズ・・・・・・」の印象もあり、郷土の悲惨な農民を背景にした宮沢賢治は、貧しく、病弱で、不遇と思われがちだが、じつは違う。父・政次郎は質屋を営み、家は裕福、町の名士でもある。長男・賢治への期待も大きく、注ぐ愛情はまさに"厳父の愛"。子煩悩を通り越してすさまじい。それが親子の"スレ違い"を生むが、根っ子の絆は深い。
賢治の作品は、その摩擦、アンビバレンツのなかから噴出したことを深く感じいった。「童話」と「雨ニモマケズ」が同居する違和感がスルスルと解かれる思いだ。賢治の人間形成は「父親・政次郎」「法華経信仰」「妹トシとの愛と死」、そして「封建から近代への時代の変貌」などがクッキリ投影されている。それがいずれも強烈に。
「賢治はなおも原稿用紙の場を見おろしつつ、おのずから、つぶやきが口に出た。『・・・・・・おらは、お父さんになりたかったのす』」「ふりかえれば、政次郎ほど大きな存在はなかった。自分の恩人であり、保護者であり、教師であり、金主であり、上司であり、抑圧者であり、好敵手であり、貢献者であり、それらすべてであることにおいて政次郎は手を抜くことをしなかった。・・・・・・巨大で複雑な感情の対象、それが宮沢政次郎という人なのだ」――。
賢治を陰で支えた政次郎は、早逝した賢治(昭和8年、37歳)よりも、はるか長く、戦後(昭和32年)まで生きる。そして改宗までする。