「いくら乱暴な人でも上司に会うのに腕まくりをするようなことはすまいが、ことばに関しては腕まくりのようなことばを使って平気である。ことばの文化は服装ほどには進化していないのかもしれない。ことば遣いは相手を考え、遠慮会釈のあるのが一人前である」
人にやさしいことば、また刺すことばがあるが、「人を傷つけない、人にやさしいことばは、美しいことば以上に大切である」
「・・・・・・たいへん役不足でありますが・・・・・・」は力不足の誤り、ことばの過ちだ。
「あいさつ、人のためならず」
「ナシのつぶて(投げた小石が返ってこないことに梨とナシをかけた)は礼を失する」
文化の成熟した社会では、ことばが大切にされる。ことばは教養の目じるしだ。戦後、ことばが乱れ、人の心もすさび、人間関係がざらざら、ぎすぎすしている。乱雑な世の中。敬語をきちんと使える人になることが成熟さの度合だ。
「長上に対してなれなれしい口をきいて平気だというのは未熟である」
淡々と書かれているが、内容は重い。
激動の世を生きた大名・茶人・建築作庭家の小堀遠州が到達した境地と世界が描かれている。「茶とは何か」「人が生きる道とは」という根源的命題に貫かれた生涯が淡々と語られる。
小堀遠州(1579~1647)の生きた天正、文禄、慶長(1596~1615)、元和(1615~1624)、寛永(1624~1644)、そして正保の時代は激烈・苛烈な時代。
千利休――古田織部――小堀遠州と連なる大茶人の道。しかし、それぞれの生きる環境は激流であるがゆえにかなり異なる。遠州を取り巻く人間群はすさまじい。千利休、古田織部は勿論、豊臣秀吉、秀長、石田三成、徳川家康、秀忠、家光、後水尾天皇、藤堂高虎、伊達政宗等・・・・・・。それぞれとの出会いを振り返り、「茶とは」「人が生きるとは」を語っている。
「かつて利休が好んだ黒楽茶碗の傲然とした様が脳裏に浮かんできた。織部もまた、茶人としてのおのれを貫くために、天下人に抗おうとしているのではないだろうか」「天下太平の茶を点てたい」「天下ではなく、おのれの安寧のために天下人に媚びる茶を点てようというのか」「ひとは生きていく限り、この世の悲しみを負わねばならぬようです。わたしたちにできるのは、悲しみのあまりにこぼれた涙の一滴を、飲み干すことだけではないでしょうか」「この世の見栄や体裁、利欲の念を離れて、生きていることをただありがたしと思うのが茶だ(伊達政宗との対話)」「利休殿が言った、泰平の世の茶人とはそなたのことらしいな」「母に疎まれ、弟を殺した者はわし(政宗)や上様(家光)のみではない。・・・・・・そこがお主の茶が退屈なところよ」「利休殿は、罪業を背負った者が点てるのが茶なのだと思われていたのではないか」「利休殿と織部の茶にあって、お主に無いのは、罪業の深さだ」「平心はわたしが目指した茶の心でもある(遠州)」・・・・・・。
柱離宮、大徳寺に移設した孤篷庵の<忘筌>。庭にも茶にも遠州の境地が現れている。「怨みに報いるに思いを以てするのが茶の心だ」「わたしは、川を進む一艘の篷舟(とまぶね)であったと思う。・・・・・・されど、孤船ではなかった」・・・・・・。正保4年2月6日、遠州は逝去、大徳寺の孤篷庵に葬られた。
19、20日の土日。地元では「小学校の周年行事」や「保育園フェスタ」「コンクリートの日体験まつり」「福祉施設のカーニバル」「特別養護老人ホームの秋まつり」「舞踊発表会」など多くの行事が行われました。
北区の赤羽西地区では「防災運動会」が地域の多くの方々が参加して行われました。地震体験や初期消火体験、給水車展示など通常の訓練だけでなく、消防車との綱引きや担架を使ったリレー、防災バケツリレーなどが競技として行われました。運動会といっても、競うのではなく和やかな雰囲気で行われ、多くの子どもたちや保護者の方々も、楽しみながら防災訓練に参加していました。災害時は地域のつながりが大切です。地域の方々が多く参加でき、とても工夫された防災訓練は大事だと思いました。
私も多くの方々と懇談しました。