若年無業者――。定義も数字もまちまちだが、内閣府の「平成25年版 子ども・若者白書」では、15~39歳の若年無業者数を84万人としている。学校にも通わず、仕事もしていない若年無業者は、怠惰ではなく、社会が「誰もが無業になりうる可能性をもつにもかかわらず、無業状態から抜け出しにくい『無業社会』になっているからだ」と指摘する。加えて「今までと違って、若年世代は、社会的弱者にもなっている」「若年無業者は、高齢化しても無業状態は継続する(若年無業者の高齢化)」「税金や社会保険料を払うよりも、無業状態が続き生活保護等を受ける人が多くなると、社会が負担するコストギャップ(生涯のコストギャップは1人1.5億円)が巨大となる」――。
書では「働きたいけれど働けない」「働き続けることができない」「もう何から始めたらいいのかわからない」という若者無業者(15~39歳)を200万人ととらえ(自らの調査)、「働けない状況に追い込まれている状況の若年無業者という社会的課題を解決しよう」「手を差しのべよう」「手間と時間をかけよう。小さな成功事例を作ろう」と呼びかけている。
人間には自己肯定感が大事であり、生きる根本はそこにあると思う。「すべての若者が、社会的所属を獲得し、『働く』と『働き続ける』を実現できる社会」をNPO法人育て上げネット工藤啓理事長はビジョンに掲げ、「若者と社会をつなぐ」をミッションとしている。追い込まれ、孤独から脱することができない若者の実例も紹介されている。
大都会郊外のマンションで起きた監禁事件。監禁、傷害、殺害、死体損壊・遺棄事件。猟奇的というのではない、まさにケモノの域だ。どうして逃げない、逃げられないのか。息苦しい。
「社会への逆恨み。でもそれも、愛がゼロだったら起こらない。愛というものがある、それが分かっていながら、自分だけが得られない。そういう思い込みから、彼らは社会を恨むんです」・・・・・・。問題は、無重力の闇に放り出されたような時だ。「その手の犯罪者は、最終的には良心がないとか、反社会的人格だとか、そんなふうに判断されるようですが、反社会というより、人間社会というものを、そもそも認知していない。・・・・・・他の人間を同族とも思っていません。単なる獲物としか見ていない。だから愛しもしないし、哀れむこともない。中身はケモノです」・・・・・・。
残酷、人間の弱さや恐怖と暴力――監禁事件は、今も起きている。
「本書は、戦後日本を支配してきた開国物語を破壊しようという企てである」「本章では、福沢の実学というプラグマティズムもまた、水戸学と同様に、国際問題に応用されることでナショナリズムとして現われたことを示したい。そのためには、福沢諭吉の文明論が尊王攘夷論と対立するものであるという通説を破壊することから始めたい」「伊藤仁斎、荻生徂徠、会沢正志斎そして福沢諭吉。この四人の思想家を直列させたとき、我々は戦後日本を支配してきた開国物語の呪縛から解放され、実学という日本の伝統的なプラグマティズムを回復し、そして日本のナショナリズムを健全な姿で取り戻すことができるのである」――。日本思想の系譜を掘り起こしつつ、剛速球を投げ込んでいる。
明らかに問題意識としてあるのは、戦後日本とは何か。当然のことのように語られる"開国"とは何か。西欧が迫り来る幕末において、「対立軸は『攘夷vs.開国』『鎖国vs.開国』ではなく『避戦vs.攘夷』であった。すなわち事なかれ主義で平和の維持を求めるか、あるいは積極的に国家の独立を維持しようとするかであった(攘夷・開国か避戦・開国か)」など、かなり根源的なものだ。そして「尊王攘夷とは」「攘夷論の源流と古学」「会沢正志斎の『新論』で初めて登場する国体とは」「皇統、政統とは」「水戸学のナショナリズムとは」「福沢の攘夷論と"一身独立して一国独立する"(国の独立は即ち文明なり)」・・・・・・。日本思想、保守思想の水流・水脈を観ずることができる。