tadasiki.jpg定時制高校生の井口耕一郎は、働かないで酒びたりの父親に代わって、新聞配達やガソリンスタンドなどで働いていた。19941月、苦労して貯めた8万円を父親が盗み使い果たしたうえ、恋人に乱暴したとの暴言に怒り殴打、大雪の中に放置して逃げ出す。「おそらく父親は死ぬ」――警察の目を恐れる彼は、故郷を離れて逃亡生活に入る。

わずかな所持金も瞬く間に底がつき、ホームレスの仲間に加わる。社会の裏側をさまよう青年の直面する現実は、過酷そのもの。しかしそこで手を差し伸べてくれたのが三浦さんという中年男性。段ボールでの部屋の作り方、空き缶の拾い方などを教えてもらう。縄張りを取ったと難癖をつけられたり、仲間が死んだり・・・・・・。

やがて、日雇い労働、「寄せ場」で働くことになり、これまでとは桁違いの11万円を稼ぐようになる。厳しい過酷な肉体労働だが、若いゆえに続けることができた。何か月も入れなかった銭湯では、あまりの気持ち良さで意識が霞んでのぼせる。そこを助けてくれたのが「相葉のおっちゃん」。寄せ場の生活では、年齢の近い「A君」呼ぶ友達もできる。

この生活から抜け出そうと、相場のおっちゃんと静岡に行き、屋台のたこ焼き屋を始める。相葉のおっちゃんは末期癌となるが、東京の就職口まで世話をしてくれる。東京で働くうちに、戸籍を求めて故郷を訪ねようとする耕一郎だが・・・・・・。

殺人の逃亡生活、ホームレス、日雇いの寄せ場の生活――底辺のその日暮らしで、理不尽な目に遭いながらも、人との出会いに支えられていく。また場所を移るたびに自分の立ち位置を地図によって確かめメモを取る。「正しき地図」とは何か、「裏側より」とは何か、が浮かび上がってくる。「普通」の家庭や生活はそれはそれで良い。その裏側の底辺にも、「脱落」「逸脱」したが故に、諦観から来る優しい、剥き出しの人間の境地が尊厳を伴ってにじみ出る。郷里に戻った耕一郎は、あのクソ親父の思いに触れていくのだが・・・・・・。

「俺の父親は、真面目が故に壊れてしまった人だった」「全日制の高校に進学したのなら。父親は自分の子供を育てると言う責務を全うできたのに。それなのに俺は父親の唯一の存在意義を、善意のつもりで奪ってしまった」――25歳の著者のみずみずしい感性を感じた。 


teikoku.jpg幕末から明治初頭にかけての不可思議な事件を扱った著作「刀と傘」は、衝撃的で極めて面白かった。今回は日露戦争前夜から太平洋戦争後まで、尾崎紅葉に師事した小説家、那珂川ニ坊が遭遇した事件を描き、その謎を解き明かす。舞台は第一話の東京・千駄ヶ谷の徳川公爵邸に始まり、京都から奈良へ向かう法螺吹峠、ドイツのポツダム、そして上海、敗戦の8. 15の京都の五話。舞台の広がりも大きいが、さらにそれを解明する探偵役が、まさに"帝国の妖人"。なんと北大路魯山人、夢野久作、石原莞爾、川島芳子、山田風太郎の若き頃という驚くべき仕掛けだ。「那珂川の赴く地に事件あり、妖人あり」――歴史・時代ミステリの連続短編集だ。立体的で面白い。

「長くなだらかな坂」――徳川公爵邸に盗人が入ったが、これといった被害もなく、盗人は逃走途中で塀から落ちて死んだと言う。札付きの与太者・ 辰三を小柄な青年・清吉が揉み合っているうちに、突然動かなくなったと言うのだが・・・・・・。「可笑しな話」と、書家の福田房次郎(後の北大路魯山人)が言う。清吉にも、房次郎にも自分たちを置いて去った「母への思い」があった。

「法螺吹峠の殺人」――急な嵐となったなか法螺吹峠にやっとたどり着いた那珂川ニ坊。藁葺きの茶屋にたどり着く寸前、左胸に短刀が刺さったままの男の屍体を発見した。その茶屋には、鳥打帽の警視庁の刑事、泰道と名乗る雲水、10代の青年と色白な娘の4人がいた。死んだ男は秘密結社に所属し、軍艦の青写真を盗んでいた。「此処におる誰かが殺したんヤロウかいね」と泰道は言い出し、謎が解かれていく。この雲水が夢野久作。

「攻撃」――大正12年、肺を患う妻を入院させ、ドイツのポツダムに向かった那珂川ニ坊。第一次世界大戦の敗北で政情不安、荒れるドイツ。戦勝国の日本を嫌悪するドイツ人の青年"博士"が、「日本の軍人は勇敢ではない。ポツダム郊外の屋敷で、日本の退役陸軍中将は割腹自殺できず、多量の睡眠薬で自殺した」と嘲笑する。ドイツ留学中の帝国陸軍軍人"大尉"は「中将は殺されたのだ」「臆病な帝国軍人なんていない」と啖呵をきる。さて、その驚くべき真相は・・・・・・。石原莞爾とゲッベルスまで出てくるが、謎解きは絶妙。

「春帆飯店事件」――舞台は昭和202月の上海。明治4年生まれで75歳になった那珂川ニ坊は、陣中慰問講演を要請され上海に渡る。宿泊する「春帆飯店」で、日本の軍律に従って、死刑を宣告された中国人の囚人が殺され、持っていた豪華な宝飾品が消えていた。犯人はこのホテル内の同じ2階にいるはずだと、捜査を担当する日本の中尉が言うのだが・・・・・・。その2階の部屋にいた"男装の麗人"が毅然とした態度で真実を暴く。川島芳子だ。

「列外へ」――敗戦直後の北野天満宮。境内の一角で意識を失っていた那珂川ニ坊は、青年に介抱される。上海で結果として人を殺した悔恨、8. 15の敗戦の衝撃、掌を返し軍部を批判し始める新聞や知識人への憤り・・・・・・。那珂川ニ坊は自殺を試みる毎日だった。青年は言う。「先生はちょっと純粋すぎるのかもしれない。僕はそこまで真剣に考えられる先生が羨ましい。僕は列外者の意識が強くて、どうも常に離れた場所から物事を見る癖がついている」と言う。那珂川は胸が軽くなり、もう一度だけペンを執ってみようと思う。「平気で矛盾を抱え、時に身の毛が弥立つほど悍ましく、それでいて、この上ない愛おしさも覗かせる不可思議な人間心理の妙を、小気味の良い物語に託して描きたい。死の淵に臨んだからこそ得られたこの体験を創作に活かせるはずだ」と思うのだった。この青年が山田風太郎。

大日本帝国の盛衰を体験した売れない、しかし書かずにいられない那珂川ニ坊と、歴史上の人物「妖人」を絡めて描くミステリ力作。 


takaaki.jpg吉本隆明の長女で漫画家のハルノ宵子さんが、父親の家で見せる素顔を極めて率直に描いている。次女の吉本ばななさんとの対談があるが、とにかく凄まじい家族だ。

「吉本家は、薄氷を踏むような"家族"だった」「"家の中に虎が2匹いる"ようなものだ」「『出て行く!』『イヤ、オレの方が出てくから!』・・・・・・ハタ迷惑で、危うく厄介な夫婦だ。それでも父は、"道化"まで演じてでも、母を失いたくなかったのだ。太陽と彗星のように、ものすごいエネルギー値で反発し合い、引かれ合う。そのエネルギーの大きさが釣り合うのは、お互いこのニ人以外いなかったのだろう」「父だってボケていた。最晩年になると、攻撃性は無くなった・・・・・・安心してください。皆ボケるんです」「(弁当でも)完璧主義の母。母は相当怖かった。母は、死んでやるって言ったら本当に死ぬ人ですから。一般的な脅しじゃないんです」「対談とは、本当にコワイものだと思っている。父は"バトルマニア"だ。和気あいあいと、おしゃべりする気なら受けない。自分の"リング"に上がってきたものは、ボコるつもりで臨んでいる。パンチを受けても返せる者なら、リスペクトしあえて、良い対談となる。もしも私が父と対談をしたら、間違いなくお互い"凶器"を持ち出しての"場外乱闘"となっただろう。それをやったら、もう二度と"家族"には戻れまい」「父が10年に1度ぐらい荒れるのも、外的な要因に加えて、家がまた緊張と譲歩を強いられ、無条件に癒しをもたらす場ではなかった。そのダブルパンチをくらい、耐えきれず噴出したのだと思っている。でも、それは誰のせいでもない。過剰なまでの闇と孤独を抱えているのは、自分自身だからだ。吹きすさぶ氷雪に傷をさらしている時こそが、癒しだったからだ。父は生涯自分の孤独から、逃れられない人だったのだと思う」・・・・・・。

「父は全てを脱ぎ捨て脱ぎ捨て、何もかも手放し、今日の1歩を歩いていた。今、この瞬間も、世界のどこかで歩いている。・・・・・・到達すべき何かを求め、何かを埋めるために、ただ1歩を歩く人だったのだと思う」と言うが、納得する。世の"知識人" に素手で荒々しく戦う吉本隆明に、1人荒野を行く骨太の吉本隆明に、私たちの世代は魅力を感じたのだと思う。不器用こそ魅力だったのだ。だからこそあの難解な「共同幻想論」、分厚い「重層的な非決定へ」を読んだのだ。今も手元にある「重層的な非決定へ」は、風呂で読んでいて落としてしまい、さらに分厚くなってしまっている。裏表紙に私のたくさんの書き込みがあった。滲んでいるのを懐かしく読んだ。


sabota.jpg「諜報活動が照らす組織経営の本質」が副題。CIAの前身(OSS)1944年に作成した「敵組織をダメにするマニュアル」、一般市民向けのレジスタンス活動の手引き書。長い間、極秘資料として非公開だったが、機密解除となり、日本では2015年に発刊された。

このマニュアルの多くの部分は、現場で実際に働く第一線の作業員などに、「建造物では自分自身が去った後に、火災が発生するように手はずを整えよ」「空気取入口または排気弁に土やゴミを詰める」「油入変圧器は、オイルタンクの中に水や塩を混入すれば故障させることができる」「道路の交差点や分岐点において標識を変えよ。敵が道を尋ねてきたときには、間違った情報を提供せよ」など直接的指示を出しているが、極めて今日的に面白いのは、「組織や生産に対する一般的な妨害」「どのようにすれば、組織はうまくいかなくなるのか」の部分だ。

「形式的な手順を過度に重視せよ(迅速な決断をするための簡略した手続きを認めるな)」――今も決済手続き、文書主義がいかに弊害をもたらしているか。お役所仕事、官僚制の逆機能(ロバート・キング・マートン)だ。サボタージュ・ マニュアルでは「そして文書を間違えよ」と言う。

そして「会議を開き、議論して決定させよ」と言う。「みんなで決める」は良さそうだが、無責任で、評価を気にするから、発言は抑制される。会議は他人の腹の探り合いの側面もあり、少数派は多数派の意見に同調してしまう。本書では「スペースシャトル墜落の原因も危険性を指摘した発言が封殺されて『会議』で決めたから」を紹介している。

さらにマニュアルでは、「行動するな、徹底的に議論せよ」と言う。「演説せよ。できるだけ頻繁に、延々と話せ」とも言う。そして、「コミニュケーションを阻害せよ」と言う。自由な発言を封じ込める。リストラに怯える社員は「目立たない」ようにし、イノベーティブな発言は抑制される。

「組織内にコンフリクトをつくり出せ」――。対立・衝突をつくり組織内の人間関係を悪化させる。そして「士気をくじけ!」「非効率的な作業員に心地よくし、不相応な昇進をさせよ。効率的な作業員を冷遇し、その仕事に対して、不条理な文句をつけろ」と言う。頑張ってるものが「やってられない」となる。

人間が行う社会――いずれも「あるある」。心すべきことばかりだ。


sakkanooikata.jpg33人の著名な作家が、「老い」について語る。それぞれ率直で、味わい深く、面白い。

「満足なんてできない。ただ、諦めることはできる。・・・・・・弱いこと、振り回されていることをちゃんと自覚できる人とまるでできない人の差は大きいと思う。聞くべき声は何時だって自分の内にある。そんな自前のモノサシをちゃんと持っている人をホンマモンの大人というのだ(あさのあつこ)」「自分の年齢をじつに生々しく思い出すときがある。イケメンと言われる俳優やタレントを見た時だ。わからないのである、その良さが(角田光代)」「年よりも若々しく見える素直な友人たちを見廻して気がつくことは、みな、悲観論者ではない、ということです。みんな何とか生きてゆけるのです(向田邦子)」「せっかく逝くのだから少し珍しい最期を(河野多恵子)」「老いの寒さは唇に乗するな(衰えの徴候をつい口にするものだが) (山田太一)」「人は知らずに、年寄りのようになる。――けふばかり人も年よれ初時雨(芭蕉)。若い人の内にも老いの境地はある。鉄道の引き込み線みたいなもので、無用のようで、なければ窮する(古井由吉)」・・・・・・。なるほど、あるある、感嘆する。

「初めは羨ましいとも思ったが、すぐにその老人の健康な生活も、日々これ退屈との格闘なのだと気づいた(島田雅彦)」「いくつになっても色気を(筒井康隆) 」「生きるということの真義は、人が軽んずる日常の充実ということにあると私は信じている(金子光晴)」「老いて何よりも悲しいことは、かつて青年時代に得られなかった、十分の自由と物質とを所有しながら、肉体の衰弱から情慾の強烈な快楽に飽満できないといふ寂しさである(萩原朔太郎)」と言う。あの萩原朔太郎がこういうことを言うのかと思う。「読み、書き、散歩」の毎日だと言う富士川英郎は、老年の心境を晩唐の詩人李商隠の「夕陽、無限に好し。只だ是れ、黄昏に近し」と夕陽無限好を語る。素晴らしい境地だ。吉田健一は「若いうちのちぐはぐ、ぎこちなさ」に比して「成熟した人間を老人と呼ぶ。成熟の持続が重要」と言う。

遠藤周作は、「彼の顔が白布で覆われているのを眼にした時、想像もしなかったその死に顔に衝撃を受けた。『自分もいつ、こうなるか』という思いが胸に込み上げた。死してそれを何で受け入れるか。例えば、愛読してきた小林秀雄氏の最後の言葉が何であったのか、最後の心情がどうだったのかを知りたい」と書く。最後の思想、最後の言葉、最後の心情は記されていないものだ。そこを知りたいのだ。「サルトルらの実存主義の『人間は不条理の世界に投げ込まれた存在である』を最近しきりと思い出される。不条理の中で生きるとはどういうことか、年とともにますますわからなくなった。ただ『生きていればこそ、幸せにもなれたろうに』と言うトルストイの言葉に間違いはなかろう(吉田秀和)」「存命のよろこび。・・・・・・生まれた地に帰りたいのだ。とにかく生き抜く。そして、最後の最後まで歌を作ろうと思う(河野裕子)」・・・・・・。80歳を超えて、なお維持する強靭な精神――中村稔は多くの詩人の「老いの詩」を批評する。「私が親しんできた西脇順三郎の世界の変奏にちがいないとはいえ、何という瑞々しさ、豊かなイメージの拡がり、自在な展開だろう。・・・・・・老いた日の刻々の光への哀惜があり、生への愛懍がある。健康が許すとしても、80歳を超えて、私にこんな強靭な精神が維持できるだろうか」と言い、「わが身が周囲に対する甘えを覚えるとき、老いたというべきだと私には思われる」と言う。

最後に精神科医の中井久夫が「老年期認知症への対応と生活支援」を述べ、「初期の認知症は緩やかに始まる」「初期とは、私は、自我同一性の喪失までとしたい。というのは、この初期の対応が改善されれば、初期が長引き、ひいては初期にとどまる可能性があるからである」と処方箋を述べている。分析は極めて説得力を持っている。

含蓄のある味わいある率直な「老い」についての発言を実感する年に十分なった。

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プロフィール

太田あきひろ

太田あきひろ(昭宏)
昭和20年10月6日、愛知県生まれ。京都大学大学院修士課程修了、元国会担当政治記者、京大時代は相撲部主将。

93年に衆議院議員当選以来、衆議院予算委・商工委・建設委・議院運営委の各理事、教育改革国民会議オブザーバー等を歴任。前公明党代表、前党全国議員団会議議長、元国土交通大臣、元水循環政策担当大臣。

現在、党常任顧問。

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