yamatokotoba.jpg「やまと言葉で哲学する」「やまと言葉で<日本>を思想する」の著者の最後の著作。「日本語とは、ながらく書き文字をもたない話し言葉であった<やまと言葉>に、大陸より伝えられた漢字から『かな(カナ)』という表音文字をつくり当て、また表意文字としての漢字そのものも取り入れて、形成されてきた言葉である」。それに明治以降、悟性、弁証などの翻訳用語が作られ続け、さらに昨今、おびただしいカタカナ用語、IT用語、音楽用語などが加わり複合語となる。本居宣長らの国学者が行ったことは、漢意(からごころ)の概念化・分節化した言葉を基本に物事を客観的・抽象的に捉えようとする発想を排除して、やまと言葉のおだやかでみやびな秩序、発想を純粋な形で復活させようとした。本書は国学者とは違って、複合語たる日本語を踏まえた上で、「やまと言葉の持ち来たった他者や事物へのより具体的、より直接的な結びつきや関わりのあり方を、それ自体として確かめてみたかった」「そのことによって、改めて『活きた』『溌剌たる生の内容』を取り戻すことができる」と言っている。やまと言葉を見つめ直すことで、日本と日本人の思想・思考を掘りあてる倫理学者の素晴らしい著作で感動する。

なんと「やさしい」「柔らかな」「相手を思いやる」「美しい」「自己を律する」「しなやか」な、やまと言葉か。それに比して、なんと粗雑で荒々しく、理屈っぽく、正義を振り回し、押し付けがましく、時間に追われて生きてきたことかと思う。特に加速するAI IT ・デジタル社会で情報叛乱に翻弄され、コスパ・タイパ社会で、言葉が加速的に乱れていることを痛感させられる。本書の意義は大きい。

「『もてなし』と『やさしさ』」「『なつかしさ』と『かなしみ』」「『ただしさ』と『つよさ(よわさ)』」「『いのり』と『なぐさめ』」の4章に分け、32のやまと言葉の語義が語られる。
「もてなし」――見返りを求めずに相手を遇する。謡曲の「鉢の木」、「心を込めて、懸命に相手を接待しようとする『もてなし』の精神は太宰の生涯を通しての性癖に近い倫理でもあり、人間なるものの尊さの証でもあり、日本文化の本質でもある」「どこまでも『おのずから』に、さりげなく、わざとらしくないような所作(利休の興ざめ)」・・・・・・。

「たしなみ」――「ある種の抑制・つつしみのようなものが働いている」「欲求と節制のほどよい加減(一定の品や格のある趣味や習い事に限定され、パチンコをたしなむとは言わない)」・・・・・・。「つつしみ」――心をひきしめ、かしこまること。「つつしみの心は自然の法則に合致する(天道をおそれてつつしむ)」・・・・・・。

「ほほえみ」――「顔でこそ笑っていたが、全身で泣いていた(芥川龍之介「手巾」)」「日本人にとっての笑いは、逆境によって乱された心の平衡を取り戻そうとする努力をうまく隠す役割を果たしている(新渡戸稲造「武士道」)」「ラフカディオ・ハーンの発見した沈黙の言語(日本人の微笑)」・・・・・・。「もったいない」――マータイさんの「もったいない」は、単なる倹約精神の言葉ではなく自然や物に対する畏敬の念が込められている。同様の意味合いの言葉は存在しないので彼女はそのまま使った、と言う。「こいしさ」――共にあり、一つ(一体)であるべき相手が、現にそうではないという距離感があったり、不在であったりするときに感じられる思いを基本としている。その意味で「恋しさ」とは「寂しさ」であり、どこまでも求め続ける永遠の思慕の感情でもある。

「いさぎよさ」――未練や執着、こだわりといった夾雑物のない心情のあり方、それらを払い捨てて処断する覚悟。「ただしさ」――ただ(直、唯、只)と同根で、あるべき理法に則るか否か以前に、まず自分の側が嘘偽りなく、純粋に全力をかけているかどうか、清明心、正直、誠、一生懸命、無心といった日本人に伝統的な心の純粋性・全力性を求める倫理観であると言う。この倫理観は理、法、決まりが前提とされる世界共通のものとは違う。「がまん」――仏教語。慢を戒める言葉だ。

「たおやかさ」――大丈夫が「立派な男、ますらお」に対して、「たおやか」は、優美でありながら対応力のある、柔軟でしなやかな強さ・確かさ。「たおやめぶり(手弱女ぶり)」を言う。「さようなら」――人生を「さようであるならば」と確認しようとすること。「それまでの自分のこし方を自分なりの言葉にし、いわば一つの物語のようにまとめ上げることによって、死というものを受容しようとすることである」。そして現在を確認・総括し、その先へと進んで行くことを表明する力のある言葉が「さようなら」だと言う。

大変な智慧宝蔵で、感動の著作。 


22saino.jpgここは京都。見知らぬ街、僕の新しい街だった」――。大学に入学した数学好きの田辺朔。今も昔も変わらないようで、大学生活に馴染めず、漫然と授業を受け、バイトをしているうちに1回生の前期は終わってしまう。後期に入ったある日、旧文学部棟の地下、通称「キュウチカ」にある「バー・ディアハンツ」に、そのマスターをしている夷川歩から誘われる。夷川は学部の先輩だったが、朔は強引にマスターの役を押し付けられる。この学内では風変わりなバーを拠点にして、集う学生たちの現代の青春群像が描かれる。

サークル、恋愛、友人、学問、セックス・・・・・・故郷を離れて、大人の世界の入り口に投げ込まれた若者たちのときめきと不安と苦悩。まさにこれが現代の大学生の心象風景なのかと大変興味深く読んだ。

作者は小説すばる新人賞を高校生で最年少受賞した青年作家。しかも私と同じ愛知県出身、理科系で京都大学大学院という。大学の雰囲気、京都の街が映像として感じられ、50年以上前の学生時代とついつい比べてしまう。意外と「大学生の心象風景は変わらない」という驚きがある。大きく変わってるのは、昔は「政治色」が激しかったことか。デモ、立て看、アジ演説。大学は喧騒の中にあり、思想闘争・論争は日常的で激しかった。体育会系のバンカラも生きていた。しかし青春の不安と苦悩は本書を読むといつの時代も変わらないようだ。

「人は人を救えない。でも、場所は人を救える」――。田辺朔も友人の北垣晴也も、朔が思いを寄せ翻弄される野宮美咲、その野宮が求める夷川、劇団を立ち上げる三井香織、朔と後輩・日岡麻衣・・・・・・。皆、ディアハンツを拠点に、結び、結ばれ、衝突し、距離感を変化させつつ成長していく。そしてそれぞれが、青春の道を、まっすぐに歩み、「22歳の扉」を開けて進んでいく。 


waraumono.jpg神森で5歳の男の子・真人が行方不明になった。真人はASD児だった。母親のシングルマザーの山崎岬、警察、地元の下森消防団などが、警察犬やドローンも投入し神森の最深部まで懸命に探すが足取りすらつかめなかった。11月中旬の森は、最低気温2度にもなり、安否が気遣われた。ところが1週間後、無事に保護され、不思議にも体力が温存されていた。

いったいこの空白の1週間何があったのか。ASDの真人は、「クマさんが助けてくれた」と語るのみ。岬と真人の叔父・冬也の懸命な調査で、4人の男女と一緒にいたことがわかってくる。それもリレーのように次々と接触、助けてくれたようだが、何しろ真人が「クマさんが助けてくれた」と歌ったり、「なくよウグイスへいあんきょう」とか「あかはとまれ、あおは雀」などと意味不明のことを言うだけでわからない。

しかしやがて、4人がだんだんわかってくる。男を殺し、死体を埋めるため森に入った松元美那、ユーチューバーで"原始キャンパー・タクマ"と称する戸村拓馬、暴力団の組から金を持ち逃げして追われる谷島哲、中学教師でいじめにあって自殺をしようと森に入った徳山理実。それぞれ深刻な事情を抱えた男女だった。さらに加えて、母親の岬には、ネットでの中傷、バッシングが浴びせられていた。岬と冬也はそれにも戦いを挑んでいく。

深刻な事件、森の中での極限状況・・・・・・。しかし、そこに繰り広げられる追い詰められた大人たちが見せる善意と愛情。葛藤の中で「生きる」意味を見出していく姿が、荻原浩さんの手によって心温まる作品となっている。ユーモアさえある。人間の生きる原点が、森と生物の息遣いの中にあることを感じさせる熟練の長編小説。 


keekonnno.jpg社会の変化は激しいが、「結婚」がこんなに変化しているのかを衝撃的に感じた。かつては、異性間の結婚をしたカップルにのみ認められた権利は、同性結婚カップルやLG BTQの人たちによって変化し、今や「友人との結婚」にまで広がろうとしている。事実婚、ステップファミリー、同性パートナーシップ、選択的シングルなど、一対の男女による結婚出産というモデルでは捉え切れない家族の形がたくさんある。「ふつうの結婚」「ふつうの家族」の常識は大変化し、友人とも結婚できる社会がすぐそこまで来ている。驚くべきスピードで、と言うのだ。

「結婚をめぐる常識は、変化している」――。「日本以外の国では、平均初婚年齢よりも、第一子出生の平均年齢の方が低い」「2018年時点の婚外子の出生割合は、日本は2%程度、EU平均、OECD平均ともに40%を超える(1990年代以降、婚外同性カップルが急増)」――それは、フランスのPA CS (パックス)を始めパートナー関係をめぐる法制度が見直され、個人に選択肢が与えられるようになったからだ。「選択的シングル」という主体的に子育てを実施する女性も増えている。

「結婚の近代史」――。「見合い結婚と恋愛結婚が逆転するのが1965年前後)」「一夫一婦制に転換したのは明治だが、妾は普通で男性の恋愛や性関係は結婚制度と切り離されたものだった」。しかし戦後の日本国憲法で「両性の合意のみ」と家同士の結合ではなく、個人同士の対等な関係となる。出会いのきっかけは「地縁」から「職縁」へ、2000年代には「婚活」へ、2022年には「マッチングアプリが22.6%」とトップに躍り出た。そして「50歳時において1度も結婚経験のない人」の割合は、「1970年に男性1.7%、女性3.3%2020年には男性28.25%、女性17.81% (国勢調査)」となる。「もはや昭和ではない」のだ。

「離婚と再婚」――。日本の離婚の比率は35%。日本の結婚の26.7%が再婚(2020年の人口動態調査)。ステップファミリー(結婚によって継親子関係を含むことになった家族)が増加している。離婚の増加により一人親世帯の貧困、ステップファミリーの家族関係の困難さが浮き彫りになる。

「事実婚と夫婦別姓」――。北西欧諸国では90年代後半から同性カップルにも、法律婚カップルと同等の生活保障を与えることで、同棲と結婚に大きな差がなくなった。トライアル(お試し)の結婚ではなく、同棲のような緩やかな関係性を選択すると言う。日本ではまだ少ないが、「内縁」「同棲」の後ろ暗いイメージではなく、「結婚している」という意識を持って「事実婚」をしている。「結婚した夫婦が必ず同じ姓を名乗らねばならない」と法律で規定してるのは国連加盟国では日本だけ。ほとんどの国が同姓・別姓・連結姓の選択肢がある。日本は特殊で、「夫婦別姓のため」に事実婚を選ぶケースが多いと言う。「多様性を排除する夫婦同姓制度ゆえに生じている事実婚が多い」のだ。真の問題は「夫婦同姓か夫婦別姓か」ではなく、「同姓のみを強制すること」の妥当性だ。夫婦同姓は明治民法によって成立した制度で、日本の伝統ではない。「子供がかわいそう」などと言う人もいるが、離婚後に8割以上の子供が母親に引き取られる状況で、最初から母親の姓にしておいた方がよほど合理的。「旧姓の通称使用で事足りる」という論調は、職場などで通称使用することが認められないのが普通であったことから、「当事者たちが勝ち取ったもの」と言う。「姓を変えたくない」「姓を変えるわけにはいかない」というのが、当事者の実情。継続的に名乗る、選択肢として認めることを求めていると言う。

「セクシュアルマイノリティと結婚」――。「セクシュアリティの構成要素は、『男女』に2分されるものではなく、グラデーション。生物学的性別、性自認、性的指向の組み合わせ。「セクシュアリティは固有のアイデンティティ。同性婚は、これまで異性愛カップルにだけ認められていた結婚が、同性愛カップルにも認められるようになった」というのが正確だと指摘する。2001年にオランダが世界で初めて、法律上の婚姻として同性婚を認めた。

「結婚の未来」――。近い将来、男性は3人に1人、女性は4人に1人が生涯にわたって、結婚という経験をしないと推計される。「結婚か独身か」として結婚という制度の中に入れようと、「結婚ありき」とするのではなく、人間の支え合いの関係の一つの選択して、結婚を位置づけ直すこと、「結婚を脱中心化していく」ことが、社会にとって重要なことだと主張している。

論点はさらに進み、2017年、同性婚が認められているアイルランドで、長らく親友関係にあった23歳差の男性同士が結婚した(同性愛者でも恋愛関係にもない)。著者は「すでに多くの国で同性同士の結婚が認められるようになった今、友人同士が家族になるための制度やシステムが普及していく可能性は高いように思う」と言っている。社会が激しいスピードで変化し、人と人との結びつきの形も多様になっていくなかで、「結婚」という制度がどうなっていくのか。重大な問題提起が起きている。 


seikaiha.jpg「なぜ物語思考が重要なのか」が副題。人間の思考は論理的思考と物語思考の2つからなると言う。論理的思考――哲学者は、世界の起源、世界が何でできているか、なぜ人間がここにいるのかを論じた。厳格な思考の道具は論理であるとしたのだ。その集大成はアリストテレスの「オルガノン」であり、それは論理の形式的な規則である。アリストテレスが樹立した不変の論理法則は、三段論法(AND/OR/NOT)のように、抽象的記号で自然言語を記述する道が開かれ、やがてデジタル計算機を誕生させ、現在のAI技術へと発展する。しかし、圧倒的能力を持つAIも、自ら技術革新を起こしたり、独創的な発想からの展開はできない。AIが行うのは論理演算の結果であり、論理的思考の行き着く先である。

人間の思考は、この論理的思考だけでなく、物語思考を持つ。知性の主要な根源は、未来の創造と新しい行動の発見・発現にあり、著者はこの能力を物語思考と名づける。脳の主目的の一つは行動の決定であり、行動するためには因果推論、換言すれば物語思考が必要なのである。本書では、私たちの脳がどのようにして物語で思考するのか、脳の持つこの生得的能力を改良する、芸術と科学などで物語思考を成長させることの意味などを詳細に説明している。

西洋哲学の揺籃期に物語は思考から切り離された。アリストテレスは文学的な対話を論理的な弁証法へと変換し、ソクラテスの対話からナラティブの要素を注意深く取り除いた。しかし知性は論理に還元できるという信念は間違いであり、ヒトの知性の主たる根源である計画作成、仮説の想像、時間軸の中で「起きるかもしれない」は計算できない。コンピュータが最適な選択肢を取ることができるのに対し、ヒトの脳は、新たな選択肢を想像することができる。ヒトの脳は革新者(イノベーター)であり、創造的な行動は頭の中のニューロンとシナプスのおかげだと言う。

AIは突き詰めれば計算機であり、創造性や想像性、感受性などは無いという人間主義的な論調は多い。我々の言ってきたことだ。しかし、本書は人間の脳と神経系統の構造に根拠を置いた野心的な論議を展開する。ニューロン(神経細胞)間のシグナル伝達に関わる継ぎ手は、非電気的なシナプスである。「電子機械であれば不可能な、精神的なアーキテクチャの即興での構築を、私たちのシナプスはやってのける」と言うのだ。故に「ダーウィンやアインシュタインがやってのけたこと(仮説を立て、想像して、新しいことを考えること)を可能にする」と言う。

脳は創造と選択をする。創造とは「新しい道具や、物や、法律や、戦術や、セラピーや、登場人物、その他を作ることである」。選択は「こうした道具、物、登場人物、その他の効果をランク付けすることである」と言う。そしてその改良には、「創造を最大化し、選択を研ぎ澄まし、そして創造と選択とを分離する」ことで達成されると述べる。

その上で「個人の成長のための物語思考」「社会の成長のための物語思考」「人生の意味への物語の答え」について語っている。私たちが人生を、社会を、未来を考えるとき、脳に備わっている「物語思考がいかに重要か」を噛み締める挑戦的著作。 

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プロフィール

太田あきひろ

太田あきひろ(昭宏)
昭和20年10月6日、愛知県生まれ。京都大学大学院修士課程修了、元国会担当政治記者、京大時代は相撲部主将。

93年に衆議院議員当選以来、衆議院予算委・商工委・建設委・議院運営委の各理事、教育改革国民会議オブザーバー等を歴任。前公明党代表、前党全国議員団会議議長、元国土交通大臣、元水循環政策担当大臣。

現在、党常任顧問。

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