7日、公明党東京都本部の荒川・多摩川・江戸川流域の国会、都議会、区議会、市議会議員が多数集合、水害対策の総合会議を開催しました。私自身が呼びかけたもので、東京大規模水害対策PTの竹谷とし子本部長、高木都本部代表とともに、意義ある打ち合わせをしました。
西日本豪雨での教訓の最大のものは「情報から行動へ」「ハザードマップのあることは知っていたが、どうなるかを住民が知っていなかった」という点。私は「タイムラインが各水系でできている。それを更に充実したものに」「タイムラインを受ける側のマイタイムラインの作成がこれから最重要」「ハザードマップをもっとわかりやすく、各家庭でも認識できるように」等々、重要な点を指摘。各市区で、具体的に推進することを互いに確認しました。「命を守る公明党」です。
責任を取る、名誉のために命を絶つ、矜持に基づく切腹は戦国時代末期から江戸時代にかけて続いた武士の"名誉ある刑罰"だ。名誉の切腹、殉死の"追い腹"、詰め腹、諫言腹、無念腹(恨み腹)。"死""自死"という究極のものだけに、ギリギリの人生そのものがそこに現われる。「本懐」と題された本書は、死という究極中の究極、その時、人間は何を考え、何を残そうとしたかが鋭角的に描かれ、じつに面白い。
大石内蔵助良雄の「親心腹」は衝撃的な新しい角度。織田信長の「応報腹」は信長の"人間50年"を邪魔した者が誰であったか、狩野融川の「持替腹」は利休をも想起させる文人・絵師魂、堀長門守直虎の「夢想腹」は大政奉還における"徳川家と朝廷"下での無念、西郷隆盛の「漸く腹」は西郷の末路の哀れさと維新のゆがみ、今川義元の「不切腹」は意外にも権力基盤の弱かった義元の切腹さえできなかった慨嘆・・・・・・。
いずれも作者が長期間温めてきた究極の場面、歴史が人間の"生と死"からにわかに立ち上がってくる。
すさまじい暑さの4日、5日の土日となりました。直射日光が頭から肩にズシッと重くのしかかる暑さ・・・・・・。かつて2003年、イラク戦争直後にイラクに行った時の40度を越える暑さや、真夏の沖縄での街頭演説での暑さ以来、東京では初めての経験です。
そうしたなか、地元では夏の行事が各町会を中心に盛大に行われました。「盆踊り」「納涼祭り」「子ども夏祭り」「どじょうすくい」「商店街のサンバパレード」「王子神社、上田端神社の本祭」等、本当に多くの行事が行われ、街は大変に盛り上がりました。
厳しい暑さの中でしたが、地域の「絆」を大切にと頑張っていただいている町会・自治会等、関係者の皆様に心より感謝です。
多くの方々と懇談ができました。
「サイコパスとは、良心を欠いて生まれた人々である」――。良心の欠如、共感性(思いやり)の欠如。だから社会適応のための治療は効果がない。人当たりがよく、弁説もさわやかで、人を騙すことが得意。魅力的に見えるが、言葉だけが上滑りして、感情が薄っぺらい。周囲を困らせ、他人を悩ませる人々。モンスターペアレント、クレイマー、酩酊下での暴力や暴言、パワハラ、セクハラ、DV、虐待、いじめ・・・・・・。こうした人々は「サイコパス傾向を疑ってみるに越したことはない」という。
人口の約1%、日本でいえば約100万人になる。サイコパス研究の歴史をたどり、①対人因子(表面的魅力、他者操作性、病的な虚言癖、自己中心性と傲慢さ)②感情因子(良心の欠如、共感性や罪悪感の欠如、冷淡さ、残虐性、不安の欠如)③生活様式因子(衝動性、無責任性、刺激希求性)④反社会性因子(少年期の非行、犯罪の多種方向性、症候群としてのサイコパス)――。この4つに分解し、④のみが低いタイプは成功者にも見受けられ、マイルド・サイコパスという。
サイコパスの原因は、脳の機能障害で「扁桃体の機能不全が中核」。遺伝的要素が濃い。そして「サイコパスの予防、治療、対処」「サイコパスとわれわれの社会――解決されないいくつかの問題」を冷静に現場・現実を踏まえて提起し、「サイコパスの責任能力」「米国の民事拘禁施設」等にもふれる。さらに「排除するだけでなく、究極的にはその存在と共にあり続けること」「少なくともサイコパスを指導者として選ばないこと」「光と闇の交わるところ」など、ヒトの進化論、宿命・業、人間論にまで論及する。
「俺はいつまでこんなことをしているのだろう」「俺は誰と、何と、戦っているのだ」――。秀吉の朝鮮出兵の濁流に飲み込まれる日本、朝鮮国、琉球国。島津の侍大将・大野七郎久高は、朝鮮国に攻め入る尚武を誇る島津の先兵となりながらも心に空洞をもつ。儒学でいうように「人は殺戮の禽獣でよいはずがない」「"天地と参なるべし"――人は天地と並び立つ崇高な存在たりうる」との思いを抱き、その境地を求めながらも戦乱の渦中に巻き込まれていく。
蹂躙される朝鮮国と琉球国。明鏡は朝鮮の被差別民である"白丁"の身分から脱しようともがく。儒学を教える道学先生との出会いと「師弟の精神」は明鏡の未来を拓く。そして琉球国の官人で"唐栄"なる集団に属し、密偵の任に携わる真市。文禄・慶長の役という理不尽きわまりない戦乱、阿鼻叫喚のなかで、3人の男が心奥からの葛藤を抱え込みながらも生き抜く姿、矜持を描く。
カギとなっているのは儒学の「礼」。国家に閉じ込められるアイデンティティ。そこから3人は脱出しようとし、「礼」に漂着する。それが本書の最後、「お待ちしておりました、島津の御大将。ようこそ、南海の勝地、守礼之邦へ」「久しぶりだな、禽獣」として示される。そして「たとえ天地と参なりえずとも。禽獣であろうと何であろうと。人が天地の間で尽くした思いや営みは、決して砕けず、褪せぬ煌めきを生むのではないか。天地に燦たる煌めきを」と結ばれ、昇華していく。権力者の誤った選択のなか、業火に焼かれる男たちはいかに折り合いをつけようとしたのか。悲惨な時代であればこそ哲学の意味が浮かび上がる。