首都直下地震対策は進んでいるのか――。こうした多くの方の声を受け、27日、公明党首都直下地震対策本部を開催しました。国土交通省や内閣府防災、気象庁から現状報告を受け、打ち合わせを行いました。
東京都心南部直下地震(M7.3)が起きた場合の被害想定は、全壊・消失家屋は最大約61万棟、死者は最大約2.3万人、要救助者は最大約7.2万人、被害額は資産等の被害が47.4兆円、経済活動への影響が約47.9兆円となっています。さらに東京都で490万人を超える帰宅困難者が出ると試算されています。
私が国土交通大臣の27年3月に、首都直下地震緊急対策推進基本計画を改定し、減災目標等を設定しました。今後10年で、想定される最大死者数、建築物全壊・消失棟数を概ね半減、さらに少なくしていこうという計画です。
対策の柱は、防災とともに応急対策活動です。具体的な応急対策活動は、常日頃より緊急出動体制を備えておくもので、(1)救急輸送ルート、防災拠点 (2)救助・救急、消火 (3)医療 (4)救援物資 (5)燃料 (6)帰宅困難者――となっています。とくに首都直下地震では、帰宅困難者への対策が他県とはケタ違いに大きくなります。
また、国土交通省からは、(1)あらゆる対策の大前提としての耐震化と火災対策(建物の耐震化の加速目標、密集市街地対策) (2)深刻な道路交通麻痺対策等(緊急輸送の要となる道路――八方向作戦) (3)膨大な数の避難者・帰宅困難者――などについて報告を受け打ち合わせをしました。
首都直下地震が切迫している今、対策を加速させなければなりません。
「『消費社会』の先端から」と副題にあるが、大都市の従属としての地方都市ではなく、大都市以上に地方都市が「消費社会」の先端にあると指摘する。問題意識は"人口減少・高齢化"とか"地方消滅"ではなく、より深く「わたしたちが幸福であるために、地方都市は本当に必要か」「わたしたちにとって望ましい暮らしは地方都市の存在と深くむすびついているようにみえる」「大切になるのは、地域に固有とされる伝統や、地方生活のたんなる経済的気楽さではない。それ以上に重要なのは、消費社会の浸透とともに、地方都市に私的な欲望の追求を肯定する場がますます拡がっていることである」という。
そこでY市を具体的にモデルとしつつ、「空き家問題」「都市の感覚水準――高層マンション(新しい設備を備えたマンション・家がほしい)」「鉄道」「自動車と街の更新」「メディアや観光やまちづくり」「ロードサイドビジネスやショッピングモールと消費社会」「ローカル経済」「流動化する労働」などを分析。地方都市の消費にかかわる多様な「現在」の姿をあきらかにしている。
「コンパクト+ネットワーク」「対流促進型国土形成」を考えてきた私として、現状を如実知見する考察は学ぶもの大だった。
NHK連続テレビ小説「とと姉ちゃん」は、ヒロイン小橋常子が練り歯磨きを作って家族のために儲けようとするところに来ている。そのモデルは、戦後に「暮しの手帖」を立ち上げ、国民的雑誌に押し上げた名物編集長・花森安治と苦楽を共にした盟友・大橋鎭子だ。
花森安治は1911年(明治44年)、神戸に生まれ、神戸三中、松江高校、東大の美学に進む。デザイン、カット、挿画、キャッチコピー、文章、宣伝、編集――その卓越さは、生来のものに更に磨きをかけた比類なきものといえる。しかし、その人生はくっきりと戦前・戦後と分かれ、断絶と継続。その陰影が本書の「花森安治の青春」だ。背景には、戦争、言論統制、滝川事件・美濃部事件、そして赤紙一枚で招集されて受けた兵隊いじめの「なぐる、なぐる、なぐる」「貴様らの代りは一銭五厘で来る」との私刑の毎日がある。
「欲シガリマセン勝ツマデハ」「足ラヌ足ラヌハ工夫が足ラヌ」・・・・・・。大政翼賛会宣伝部時代、広告制作を担った宣伝技術家・花森安治は日本宣伝道を走ってしまった。そして「人間は戦争に反射し、発熱し、疾走する動物なのだ」「戦争が起こってしまえば・・・・・・、人は戦争に加担する動物だ。一生懸命やってしまう動物だ」と・・・・・・。
そして戦後、大橋鎭子と妹たちと「暮しの手帖」を立ち上げる。「女性が太陽の暮し。女性が真ん中にある暮し。それが続けば戦争は二度と起こらないはずだ」「女性が太陽の暮し。それを実現するための暮しの工夫や暮しの提案をしよう」「もう時代と並走するのはやめよう。これからは揺るぎない暮しを作っていくのだ」・・・・・・。そして花森安治の国への批判、反戦意識は強く、激しくなっていった。青春時代の筆舌に尽くせぬ苦しい体験、にがい体験と反省、「女性が太陽」に込められた思い等がケタ違いに深く、内奥に刻まれていたことが伝わってくる。
1929年7月、田中政友会内閣が、張作霖爆殺事件(1928年6月)の処理に失敗して総辞職、民政党の浜口雄幸内閣が誕生する。1927年3月の金融恐慌の始まり(東京渡辺銀行)、1929年10月のニューヨーク株式市場の大暴落(暗黒の木曜日)でいよいよ世界恐慌へと突き進む。一方、1928年8月にはパリで不戦条約が調印される。そして1931年9月18日、奉天の郊外・柳条湖付近で満鉄の線路が爆破され(満州事変)、暴走が始まる。
そうした世界の激動のなか、1930年1月からロンドンにおいて日米英仏伊が参加して行われたのがロンドン海軍軍縮会議だ。浜口首相、幣原喜重郎外相が、主席全権として選んだのが首相経験者・若槻礼次郎。拒む若槻を説得し、随員としてピタッと付いたのが雑賀潤外務省情報部長だった。米英列強との激しい攻防のなか、雑賀は激しくも巧みな外交戦を展開し、起死回生の案をまとめ、ついに4月には海軍軍縮条約の調印に迄もっていった。
欧米列強との激烈な攻防、日本国内での軍部との軋轢(随員のなかでも山本五十六ら)、浜口内閣の「緊縮財政」と「協調外交」の2大柱への批判――。それは「弱腰外交だ」「緊縮財政が日本経済にもたらしたのは景気悪化だ」、さらには軍令部の反対を無視して軍縮条約を調印したことは「統帥権干犯」であるとの犬養毅率いる政友会等の追及を浴びる。批准をめぐって、元帥・軍事参議官会議、枢密院の審査の関門はさらに厳しかったが、浜口、幣原そして走り回る雑賀はそれを突破する。「外交は、武器を使わない戦争だ」「交渉を決裂させてはならない」との気迫、そして「これほどの不景気となりながらも、国際協調と平和、国民負担の軽減を謳う民政党政権と、そのためのロンドン海軍条約の成立を大衆は支援した。とりわけ国民が信頼したのは、浜口首相その人の清廉さと不退転の意思であった」という。国民の強い支持あっての成果だ。
しかし、浜口首相は11月14日、東京駅で狙撃され重傷を負い、31年4月内閣総辞職、8月に死去する。若槻礼次郎が組閣するが、関東軍の暴走を収拾できず12月には総辞職。あとを継いだ政友会の犬養も32年5月15日、射殺される。「二大政党制」「国際協調」「緊縮財政」は急転し、日本は戦争へと進んでいく。本書は日本の分水嶺となった浜口内閣の2年弱と最重要案件のロンドン海軍軍縮会議を緊迫感をもって描く。