18日、三重県紀北町で「第24回全国みどりの愛護の集い」が皇太子殿下ご臨席のもと行われました。素晴らしい晴天、鮮やかな新緑のなか、心がふくらむようでした。緑化や自然環境保護のために尽くされた方々の表彰、活動報告、そしてカワヅザクラなどの記念植樹をしました。
その後、全国に先駆けて建設された大紀町の「津波タワー」を谷口友見町長に案内いただき、紀勢自動車道については尾上壽一・紀北町長、西田健・紀宝町長とともに建設現場を視察しました。この地域は、三陸と同様の美しいリアス式海岸。しかし、南海トラフの地震では10mを越える津波が想定されており、町をあげての取り組みが開始されています。高速道路も経済・社会の側面だけでなく、海岸沿いも高い所を走るようにして、津波の時に駆け上がれるように階段や避難広場を設置するなど、防災上の工夫をしています。海岸沿いの町といっても、それぞれ異なった地形となっています。それに対応した町づくりを、その現場を見るなかで、懇談をし、要望を受けました。
フランツ・リストの「巡礼の年」「ル・マル・デュ・ペイ」が静かに、メランコリックに流れている。本書に低く奏でられているのは、この心に抱え込んでいる深い哀しみだ。
「自分だけに何故」――突然、あれほど親しかった4人の友に交流を拒絶され、多崎つくるは死を常に意識するほど追い込まれる。それが10年以上も続く。そして現実に肉体を殺害される以上に人生の色彩を奪い、"人生の亡命者"とまでに自らを変貌させた奪命的な傷が、じつは友人にも、年月を超えても振り払うことができないものであったことを知る巡礼の旅――。漱石の小説「こころ」をまず想起した。
人間は自分の色を持って生きる。多崎つくるが自覚するのは、「個性がない」「特段とりえもない」「色彩をもたない」ということだ。しかし高校時代の赤松、青海、白根、黒埜の4人の友人にとっての多崎つくるは、カラフルであったり、安心感のある良き器であった。そのことを拒絶された16年の苦悩を経て知る。
仏法でいう五大――地水火風空のなかで、調和という最も大切な働きである空の存在だ。この巡礼の旅は人間の心の深層に静かに迫るとともに、心地よく一気に読ませる。深く落ち着いて、いい。
11日(土)、沖縄県を訪れ、那覇市内で仲井真弘多知事と会談し、那覇空港の第2滑走路増設や那覇空港の着陸料の軽減、沖縄西海岸道路の建設、沖縄の観光振興等に関する要望を受けました。また、沖縄県内の観光団体、建設関連団体の方々から要請を受けました。その後、公明党沖縄県本部主催の政経文化セミナーにも出席しました。私は若いころから約50回、様々な局面のときに沖縄に来ていますが、「沖縄はアジアの時代の経済と平和のセンターであり、沖縄振興が最も重要だと思っている」と述べました。
また、最も大事な領海の警備任務を遂行している第11管区海上保安本部を訪問し、ヘリコプターを搭載している巡視船「りゅうきゅう」(3335トン)に乗船、職員の方々を激励しました。
12日(日)は、青空が広がるなか、北区青少年剣道大会や連合町会や町会の運動会等に出席し、多くの方々と懇談しました。
デフレの克服は日本にとって最大の課題だ。「デフレと金融政策をめぐる論争は、混迷する現代マクロ経済学の反映だ」と、吉川さんはいう。そして、日本の「デフレ20年の記録」をたどるとともに、マーシャル、ケインズ、リカードからクルーグマンまでの経済理論を概説する。
デフレは「貨幣的な現象」であり、最も重要な変数はマネーサプライであるとする経済学の背後にある「貨幣数量説」――。それらに対して「ゼロ金利のなかでは話は変わってくる」「マネーサプライのなかに解はない」と指摘する。そして「デフレの正体」として「生産年齢人口の減少」の影響は小さく、経済成長にとって主役とは全くいえないとする。さらに日本経済の長期停滞は、デフレが要因であり金融政策が不十分であったという論に対して「デフレは長期停滞の原因ではなく"結果"だ」「デフレに陥るほどの長期停滞を招来した究極の原因はイノベーションの欠乏にほかならない」「経済成長にとって最も重要なのは、新しいモノやサービスを生み出す需要創出型のイノベーションだ(低価格志向、安いモノへの需要のシフトであってはならない)」「日本のデフレは、90年代後半、大企業を中心に高度成長期に確立された旧来の雇用システムが崩壊し、変貌し、名目賃金が下落したことが大きい」などと指摘する。
「流動性のわな」から脱出し、このデフレの下でいかに「将来」の期待インフレ率に働きかける政策が重要なのか、その基本的考え方を提起している。経済論争そのものだ。