ノンフィクション作家の佐々涼子さんが9月1日、亡くなりました。人間の生と死をテーマとした作品は、いずれも心に迫り、感動的で、多くの気づきをいただきました。「エンジェルフライト 国際霊柩送還士」「紙つなげ!彼らが本の紙を造っている 再生・ 日本製紙石巻工場」「エンド・オブ・ライフ」、そして昨年暮れに出した「夜明けを待つ」では、自らが悪性脳腫瘍であることに触れており、心配しておりました。56歳という若さで、本当に残念です。心よりご冥福をお祈りいたします。

今年3月、「私の読書録」にこの「夜明けを待つ」を載せています。ここに改めて載せさせていただきます。

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<2024年3月11日「私の読書力」掲載分より>

夜明けを待つ  佐々涼子著  集英社インターナショナル

yoakewomatu-thumb-autox214-14122.jpgノンフィクション作家・佐々涼子さん初のエッセイ&ルポルタージュ作品集。この10年の作品から厳選したもの。心を揺さぶられ感動した。静かで丁寧に深く生と死を見つめる姿が心に沁みる。しかも、「あとがき」で佐々さんは今、悪性の脳腫瘍「グリオーマ」に罹り、「この病気の平均寿命は14か月といわれている」と言う。「グリオーマは『希少がん』と呼ばれているが、『希少』は、私には『希望』に見えてくる」「誰かが私を導き夜明けを照らしてくれるだろうか。・・・・・・そして遺された人たちには、その限りある幸せを思う存分、かみしめてほしいのだ」と言っている。

さらに亡くなったお母さんは難病にかかり、「約10年間、母は24時間、父に介護され、下の世話をされ、入浴の介助をされて、人の手を借りながら生きてきた」と語り、「死」と、向き合いながら生きてきた。そして遺体や終末期医療等、多くの「死」を取材してきている。すべての取材に、描くエッセイに、生死の世界が現場から生々しく、しかも温かく、自身の実感を込めて開示される。開示悟入、明らかに観る諦観だ。「『長生きして幸せ』、『短いから不幸せ』、といった安易な考え方をやめて、寿命の長短を超えた『何か』であってほしい」「私たちは、その瞬間を生き、輝き、全力で愉しむのだ。そして満足をして帰っていく。・・・・・・だから、今日は私も次の約束をせず、こう言って別れることにしよう。『ああ、楽しかった』と」――そう言っているが、佐々さんの健康・長寿を心より祈るものである。

短いエッセイが続く。「『こんな私は嫌でしょう?』とお父さんに聞いたら、それでも生きていてほしいと言ったのよ(「死」が教えてくれること)」。「私は死に方を知らないが、きっと体は知っている。・・・・・・だから命のことは体にゆだね、まかせていればいいのではないだろうか(体はぜんぶ知っている)」。「(アルコール依存症の治療で)こちらが無理やり直そうとするとたいてい失敗しますね。医師が治すんじゃないんです。まず本人が今のままではだめだと自覚しないと。・・・・・・依存症患者もある種の断念をくぐって、受容に至るのかもしれない。つまり一度『死ぬ』のだ(諦念のあと)」。「父は母の分まで幸せになろうと決めているのだろう。幸福でいるためには時に強い意志が必要だ(幸福への意志)」。「日本が実習生を安い労働力だと思っているなら、私はベトナムからの実習生はあと数年で来なくなると思うの。日本はどうなっちゃうんだろうって思うわ(ハノイの女たち)」。「終末医療の取材では亡くなりゆく人が、私にだけ胸の内を明かすこともあった。今ならわかる気がする。近くにいる人に言えば、その人にも苦しみを背負わせてしまう。・・・・・・街にはそういう距離の人がいる。飲み屋の店主、タクシーの運転手、かかりつけの医師に看護師・・・・・・(いつもの美容師さん)」。日本経済新聞の連載が多いが、確かに、なるほどと思うばかりだ。

「片方の手ぶくろたち」「誰にもわからない」では、「どうか、目の前にいる人を大切にしてほしい」「いくら自分の外側を探しても答えは見つからない。自分の内側に戻って自分なりの生き方を見つけよう。今を生きなさい。自分の内側に戻りなさい」と言う。

「ルポルタージュ」では、外国人技能実習生を指導する日本語学校の現場をひたすら歩く。特に「ダブルリミテッド」の問題。日本語の言語体験が圧倒的に少ないまま小中学校を過ごし高校生になっている現実。抽象的概念の言葉は理解不能。親の言葉さえわからない子供はどうして生きていけるのか。「あんなにシャカリキに自分たちと向き合ってくれた日本人がいた、と思い出してもらえたら、私はそれだけで満足なんです」と奮闘している日本人女性をルポしている。また生と死、宗教的なるものを求め続ける世界の旅、バブル時代の若者がどうなったのかを巡る旅。サリン事件の若者たちに触れつつ、「閉じ込められたものは何でも腐る。空気も、水も、人の集団も」「やることがあるだろう、人の中へ帰れと」と語っている。

本当に心に沁み入る作品集。 


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「今年もみんなでやっとさー‼」――猛暑の8月24日、東京大塚阿波おどりが盛大に行われました。

今年は節目となる第50回の開催となり、東京では高円寺に並び、都内屈指の規模と歴史を誇ります。次々に迫力のある「連」が登場、沿道の観客からも声援・歓声が上がりました。

猛暑のなか、これほどの規模の「大塚阿波おどり」の運営をしてくださった関係者の方々に、心から感謝します。


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猛暑となった724日、東京北区の赤羽台に新設されたURの団地・住宅のミュージアム(URまちとくらしのミュージアム)を訪問。100年前の関東大震災後に建設された同潤会代官山アパートや戦後のDK (ダイニングキッチン)スタイルを普及させた蓮根団地(S32)の復元、昭和30年前後の都市の不燃化と高層化の模様(晴海高層アパートのエレベーター)など、団地の歴史と間取りなどが一目でわかる展示を見ることができました。団地の歴史、住宅の変遷、キッチンやバス・トイレの変化など、懐かしさとともに時代の変化を感じ、感慨ひとしおでした。

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この画期的な団地のミュージアムのある赤羽台団地。昭和37年に入居開始となり、当時は東京23区内最大の団地でした。その生活ぶりを知りたいと、アーノルド・トインビーが視察に来たこともあるほど有名。この20年で建て替え・高層化が完了、現在はヌーヴェル赤羽台と言われます。大変貴重な視察ができました。これには、大松あきら都議会議員、須藤あきお北区議会議員が同行しました。 

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20年ぶりの新紙幣――73日、10,000円札「渋沢栄一」ゆかりの東京北区飛鳥山でくす玉を割る記念セレモニーが行われました。場所は飛鳥山公園内にある国重要文化財「青淵文庫」前のグリーンの庭。夏の暑い日差しとなりましたが、山田加奈子区長や国会・区議会関係者、渋沢家関係者、地元の各団体や町会・自治会代表ら多数が参加。くす玉割りは地元の幼稚園児が行い、盛り上がりました。

ここ飛鳥山公園は、渋沢栄一が61歳から91歳の最後まで30年過ごした地。人生で最も長く住んだところです。また近くには国立印刷局東京工場もあります。地元としても祝賀の日となりました。私も配られた小さな小さなくす玉を一緒に割りました。


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本当に暑い日となった28日(日)――。地元では久しぶりに本格開催となった赤羽馬鹿祭り、飛鳥山公園では津軽すこっぷ三味線演奏などの諸行事が盛大に行われました。

赤羽は550年前、太田道灌ゆかりの地であり、今は東京の北の玄関口。庶民の街として賑わいを見せています。コロナ禍をくぐり抜け、伝統の赤羽馬鹿祭りが、今年は大変多くの人が集い、パレードが行われ盛り上がりました。

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飛鳥山公園は、徳川吉宗以来の桜の名所ですが、渋沢栄一が最も長く住んだ所でもあります。今年の7月3日から、渋沢栄一が10,000円札で登場します。その祝賀を込めての「津軽すこっぷ三味線」演奏。軽快なバチさばきが響き渡りました。

いずれも野外。本当に暑い日でしたが、多くの人と懇談しました。 

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プロフィール

太田あきひろ

太田あきひろ(昭宏)
昭和20年10月6日、愛知県生まれ。京都大学大学院修士課程修了、元国会担当政治記者、京大時代は相撲部主将。

93年に衆議院議員当選以来、衆議院予算委・商工委・建設委・議院運営委の各理事、教育改革国民会議オブザーバー等を歴任。前公明党代表、前党全国議員団会議議長、元国土交通大臣、元水循環政策担当大臣。

現在、党常任顧問。

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